郷土芸能【鹿踊り】

すきとほつた秋の風から聞いた、というこの物語。
まだ、人と自然が共感しながら生きていた、あたたかさを感じます。

ところで、岩手の代表的な郷土芸能である【鹿踊】をどれくらいの方が見たことがあるでしょうか?

筆者は「鹿踊りのはじまり」を読むまで、もちろん見たこともなく、
その存在さへまったく知りませんでした。

因みに、【鹿踊】は「ししおどり」と読みます。

起源はさまざまで、特定はされていないようですが、
狩猟で犠牲となった鹿の供養のために始められたという説や、
猟師である夫の放った猟銃の玉が鹿に当たらないようにと、
自らが楯となり死んだ妻の墓の前で、八頭の鹿が柳の枝をくわえて回り、
その姿を見て感動した夫が鹿の皮を着て供養のために踊った、という説、
浄土教の普及を志す空也上人が生きとし生けるものを迷いの中から救うために、
山奥にこもり、自分の心の本性の本質を見極めようと修行をしているところに、
鹿が来て遊んでいたのですが、そのうちに猟師に撃ち殺されてしまい、
その供養のために踊り始めたという説、
他にも、昔、春日大明神では、春日の神の使いとしての鹿を人間と同じと考え、
鹿の死を人間と同じように供養したり慰霊して踊っていた、など本当に沢山あるようです。

いづれにしても、命を失ったものの魂を鎮めるための踊りとして、盆や秋祭りの時に
神社の境内や民家の庭で踊られることが多く、
五穀豊穣や念仏供養の祈りが込められているのです。

人間の自然に対しての畏敬の念を感じます。
そして、その踊りは鹿の動きを模して、なんとも勇壮で風格があります。

この【鹿踊】、年に一度ではありますが、東京の中野でも見ることが出来ます。
2月3日の節分の日の、新井薬師にある「梅照院」の節分追儺(ついな)式にやってきて、
境内で奉納を行うのです。

写真は2012年のものです。
境内での奉納のあと、中野の街を歩いて中野サンプラザまで移動し、そこでも踊ってくれました。

 

全身を覆う衣装、、
頭には鹿の角を飾り、毛采(けざい)と呼ばれる黒い髪の毛のようなものを長く垂らし、
背中には御幣に見立てた白く長い”ささら”というものを2本背負っています。
そして、腰には太鼓を付けて、二本の細いバチで打ちならします。
装束の重量は15キロ以上にもなるそうです。

太鼓を打ち鳴らしながら、謡い、踊ります。
実際に近くで見るとその迫力と何とも言えない空気に圧倒されます。
頭を大きく振って、ささらが地面に叩きつけられる様は力強くありながら優雅で神聖な感じがします。

さて、そんな【鹿踊】ですが、賢治童話における「鹿踊りのはじまり」は【鹿踊】の数ある演目なかの
≪案山子踊り≫が元になっていると言われています。

≪案山子踊り≫は、田や畑に立てられた案山子を鹿たちが見て、
何だろうと、おそるおそる近づいて、徐々にその正体が恐れるものではないことを確認し、
安心して、遊び戯れる様子を踊りにしたものです。

物語の中では、案山子ではなく、
膝を痛め、その療養のために山の中の温泉に向かう嘉十が、休んだ途中で
忘れて置いて来た手拭なのですが、
鹿たちの「何だろう?」という様子が、とても楽しく描写されています。

鹿は大きな環をつくって、ぐるくるぐるくる廻つてゐましたが、
よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられてゐるやうでした。
その証拠には、頭も耳も眼もみんなそつちへ向いて、
おまけにたびたび、いかにも引つぱられるやうに、よろよろと二足三足、
環からはなれてそつちへ寄つて行きさうにするのでした。

そして、そんな様子を、手拭を忘れたことに気がついた嘉十が戻ってきて、
すすきの間から息をこらして見ています。
不思議なことに鹿たちの言葉も聞えてきます。
人と自然とが、まだ大きな隔たりがなく、
嘉十の好奇心と興味が鹿の言葉を判らせたのでしょうか。

鹿たちのやり取りは、花巻弁で書かれていますが、愛嬌があり、とてもユーモラスです。
実際の≪案山子踊り≫は、もちろん台詞はありませんので、
賢治さんの書いたこのやり取りを思い起こし、色々想像して見ていると本当に楽しいです。

「なぢよだた。なにだた、あの白い長いやづあ。」
「縦に皺の寄つたもんだけあな。」
「そだら生ぎものだないがべ、やつぱり蕈などだべが。毒蕈だべ。」
「うんにや。きのごだない。やつぱり生きものらし。」
「さうが。生ぎもので皺うんと寄つてらば、年老りだな。」
「うん年老りの番兵だ。ううはははは。」
「ふふふ青白の番兵だ。」
「ううははは、青じろ番兵だ。」
「こんどおれ行つて見べが。」
「行つてみろ、大丈夫だ。」
「喰つつがないが。」
「うんにや、大丈夫だ。」

生き生きとこんなやり取りをする鹿たちと
それをじっと見つめている嘉十との間には、境界線は無いはずです。
それでも、物語の最後、自分自身も鹿のような気がして思わず飛びだした嘉十に驚いて、
鹿たちは逃げていってしまいます。

鹿たちから人間はどんな風に見えているのでしょうか。

人と自然との在りかたを、今一度考えさせられます。
そして、人間が、これら自然のものたちと共存し、
同じであるということを忘れてはいけないと実感するのです。

普段、東京で生活をしていると、忘れがちです。
岩手に行くとバスや電車の本数が少ないなど、多少の不便を感じることもありますが、
人間が本来持っている、感覚や想いを呼び起こされます。

自然という命への敬いの念から、発生したこういった郷土芸能を見ることも楽しいです。
岩手には数多くの郷土芸能があり、伝承されています。
今年の2月に遠野で、神楽を見ることができました。
剣舞や念仏踊りはまだ見たことがなく、いつか見に行きたいです。

この世界で生きているのは人間だけではありません。
他の動物たち、鳥や魚や虫たち、花も草も木も石も山も川も、風や雲も生きているのです。
人間が、すべての命あるものと共にいることを忘れずに生きていれば
きっと世界はしあわせなのだろうな。
賢治さんの物語はそれを感じ伝えてくれているのだと思うのです。

※おまけ


東北新幹線新花巻駅前で出迎えてくれています(笑)

7月23日、日曜日
ぜひ、花巻へ!
宮沢賢治イーハトーブ館ホールへ!
ポラン寄席へ!
お越しくださいませ。

(文・小川智代)