お天道様が見ているよ

どうもみなさんこんばんは。

春眠暁を覚えないけど、使っている布団がダメになってきて寝苦しいのが悩みの鈴木です。

都内ではもう28度を超える日が出ました。

涼しいお部屋でのんびりゴロゴロしたくなります…。

 

今回は前回に続いて欲について書きたいと思います。

なぜかというと、最近童話作品ではなく詩を読みまして、その中に「慾」について触れている作品を読み、

ちょうどいいのでもう少し書いてみようと思いました。

 

「欲」と「慾」この二文字で書き分けましたが、実は単に常用外だとかそういう分け方なのではなく、はっきりとした違いがあるのだそうです。

「欲」は簡単に申しますと、生物的な欲…ご飯、お布団、おトイレなどの生理的な欲求から、生命の危機からの逃避、闘争を求めるような原始的な欲求。

「慾」は「心」が付いているだけに、社会的、心理的な要素が絡んだ、いわば「良く」ない欲を指すのだそうです。心から離れれば悩みから解放されるのだとか。

 

そして、そもそも欲ってのはどこから生まれるのかと申しますと、

僕ら日本人には馴染み深い「108の除夜の鐘」の108の数の元と言われている「煩悩」。

更にそれらの大元である「六根」からきているとのこと。

六根とは大雑把に言えば我々の五感+心のこと。そこから人間の諸悪、苦しみとされる「三毒」「三業」という欲が生まれ、更にそこから「十悪」という十種の罪悪が生まれるのだそうです。

ごく噛み砕いて言えば、我々の体や心をもとにして細分化された意識から種々の欲が生まれてくる、ということだと思います。

これら三業や三毒、十悪の中には、賢治さんの作品のタイトルにもなっている「貪慾」も含まれており、更にその作品の中で語られているある尊者の説いた「十善戒」というものが、まんま十悪を反転させたものだったりします。

全部を説明するのは読む方も疲れるのでここでは触れませんが(ネタの温存)、

世間一般で言われている常識や当たり前なモラルを考えれば、だいたいそれが当てはまります。

やっぱり日本は無宗教の人が多いといいますが、その基盤は仏教のような馴染みの深いものになっているんですね。

 

ちなみに余談なんですが、海外で宗教を聞かれたら、何か特定のものを信じていないのであれば仏教(または神道)であると答えておくのが無難です。

理由は、無宗教だと言ってしまうと「善悪の判断基準がない」「何をするかわからない」「人間扱いされない」とみなされかねませんし、

(悪い意味で)アンビリバボーな人だとかさもなくば的とみなされる場合すらあります。なので、角が立たない答え方をすると良いですよ。

 

話がちょっと逸れましたが、この世というものは悪を為しやすくその方が利口な生き方とされることすらあります。

楽になるのになぜそれをしないの?と。

我慢する必要だってないんじゃない?と。

でも、僕はそういう時、こんな言葉を思い出します。

お天道様が見ているよ」と。

人は誰もいなくても、お天道様は空からみてらっしゃる。

胸を張ってお天道様の光の元を歩きたいし、これは僕自身の感性ですが、その方がかっこいい!

そして、見ていないから、みんなやっているからいいのではなくて、僕の場合は「品格」や「エチケット」「モラル」の問題だと思って、

筋の通らないことや悪いことはしないと心がけております。

僕が賢治さんの作品を好んで読むのは、作品の裏側にそうした生き方の尊さを潜ませていることを感じられたからなのかもしれません。

 

とまあ、とりとめもなく書いてしまいましたが、欲という言葉ひとつを調べてこんなに色々広がったのは正直驚きました。

同時に、意外と人間の心って単純なんだねということも。複雑にしてるのは各々の努力不足なんじゃないかな、なんて思ったり。

 

常に誇れるような自分でありたいですね。

 

たいぢ